無関心に関心を向ける人に感心
今日は労働社会学のテストがあった。労働問題について色々考えさせられることはある。労働者がどのように闘争してきたかなどは歴史的には興味深い。
しかし端的に言ってしまえば、この分野は心に響かない。
なぜなら実感が伴わないからだ。
それは僕は下級労働者の親を持たないためであろう。
それゆえに一つ考えてしまう。
労働社会学に取り組む大学教授などは、大抵はいわゆる「インテリ層」だし、きっと多くの人は社会階層的に上の方に位置する家庭の出身なのではないか。その人たちはなぜ労働社会学に取り組み、また社会問題を解決するためのエッセンスを作ろうとするようになったのか。
LGBT問題についても同じことを思う。
僕はいわゆる「ノーマル」であるが、LGBTがいることは理解している。人がどういう嗜好なのかは個人の勝手だと思うし。だが「ノーマル」が大多数のこの世の中において、きっと彼らは生きづらいだろう。
そのために彼らが彼ららしくいられる世の中になってほしいと願うことは当然だし、そのような問題を解決する運動に取り組むのを見れば、大変だろうけど頑張ってほしいと思う。
しかし理解できないのは、「ノーマル」の人がさも自分のことのような悲壮感を持って偏見へ抵抗したり、活動をしていることである。どれだけお人好しなのだろう。素直に尊敬してしまう。
そういえば労働問題でいえばマルクスの盟友エンゲルスはたしか金持ちだったと思う。
世の中には僕の理解の外にあることが山ほどあるのだろうと感じる。
だからきっとテスト問題だって理解できないし、できなくたって仕方ないのである。
単位、来い。
<追記>
タイトル付け忘れてた。
なので思いっきりドヤったタイトルにしてみた。
うまいだろ(ドヤッ)