人という字は人と人とが支え合ってできているというのはあながち間違いではない。
自己肯定がなくては、生きていけないと思う。
自分が何か他の人に比べて勝っているという部分がなくては。
自分に自信がある点がなかったら、僕だったらまず死にたくなる。
だけど残念ながら、僕は自信があるものが少ない。
それは、とてもとても優秀な兄を持ち、どうしてもそれと比較してしまうからである。
兄は勉強せずともそれなりに良い成績が取れるのにめちゃめちゃ勉強するし、運動はなんでもできて足だってかなり速い。具体的なエピソードをあげるとすればいくらでも出てくるが、長くなるのでよしておく。
さて、そんな兄に僕は少ないながらも勝っている部分があると思っていた。
それは字の丁寧さだ。
兄はそれはそれは適当に字を書くので、読めないというわけではないが文字通り雑になっていた。
一方、僕は普段は丁寧に字を書くので、まあとても綺麗というわけではないが、それでも悪くない字を書く。本当に上手い人と比べると悲惨なのだが。
だが残念ながら、兄は本当に適当に、雑に書いていただけだったことが発覚した。
めちゃめちゃうまかった。
就職活動中の兄の企業に提出する書類を拝見したところ、ショッキングなほどに丁寧で、上手だった。明らかに僕よりうまいのである。
本気を見せられた。悲しい以外の感想が出てこなかった。
で、なんで僕は自分の字が兄より綺麗だと勘違いをしていたのだろうか。
それを少し考えてみたところ、やはり母など、他人の言葉が重要だったということだろうという結論に至った。
母は小学校低学年の頃から、よく私に言った。
「あなたは字を丁寧に書くね。綺麗だね」。
たまにテストで時間が短いために急いで雑になってしまったときには、
「どうして丁寧に書けば綺麗なのに、こういう字を書くの。先生に失礼でしょ」。
そして兄の字については、
「全然丁寧に書かない」と嘆いていたのだ。
母だけでなく、友人の言葉も(たまに褒められる程度だが)重要だったように思える。この間なんかは「横書きなら本当に上手」なんて具体的に言われたので、それはそれは舞い上がってしまった。
心理学的に分析したわけではないし正確性のかけらも無いけれど、自己肯定というものは自己ではなく他者を起因にして、つまり他者からの評価によって成り立っているようだ。
「綺麗だね」という他者の言葉が、仮に幻想だったとしても僕の自信を作り上げていった。
いつしか自己評価へと変わっていったらしいが、自信とはそうやって生まれてくるものではないだろうか。
そして自信がなくなるというプロセスもまた、やはり他人によって決まってしまうのかもしれない。
僕が兄の字の綺麗さへの驚きを母に伝えたところ、「丁寧に書けばうまいんだよ。なにせ小学校1、2年生の頃は白尾先生に仕込まれたんだからね」と当然であるかのように言われた。
白尾先生がどれほどの先生なのかはそこまで知ったことではないが、白尾先生の指導を受けていない僕にとってはとても悲しいことだった。
別に僕の方が下手くそだと明言されたわけではないが、各人の基盤となる部分に格差があることを指摘されると、もう敵わない気しかしない。本気を出せば、僕はちゃちゃっと抜かれてしまうのだ。悲しかろう。
人は他人に生かされているのだと感じる。
もっと言えば、他者からの評価によって。
人は助け合いで生きているというけれど、それは何か直接的な利益になるようなことを他人がしてくれるというわけではなく、他人が自分を評価してくれる、見てくれるからこそ生きていけるのだということなのだと思う。
ここがいいね、ここはダメだねと言ってくれる他者によって、自信や、生きる活力が湧いてくるのではないか。その相互行為によって、人というのは生かし生かされている。少なくとも僕はそうである気がする。
とりあえず今は、字以外に誰かが褒めてくれた点を必死に思い出している。
どうやら思い出せないがきっと何かあっただろうから、ひとまずは「僕は何か自信を持てることがきっとある人間だ」という自信を持って生きてみよう……。
<余談>
本当はこの後ネットで見たニュースや、母から聞いた話を入れるつもりだったのだが、なんだかうまいつながりを作れないため、ひとまずここで筆を置く。
それと、この記事を書いている途中に教えてもらった歌が、なんとなく内容とリンクしている気がするので紹介しておく。他者からの目線が自分を生かしているという感じ。多分かなりメジャーな歌だが。こういう歌が他にもあれば教えて下さい。