脇阪、革命を起こさんとす。
恐ろしく久々にブログを更新してみようと思い立ったのは、就職活動が終わったからだ。
正確に言えば終わってはいないのだけれど、
結果としては、行きたい企業(大手)に合格することは叶わなかった。
しかし、やりたいことができる企業に内定をもらうことはできた。
しかも、給料も悪くない、というより良い。
果たしてこれは、「失敗」というのだろうか。
結論を言ってしまえば、僕は失敗だと捉えている。
正直、「自分であえて選んで」大手企業以外に行く人以外は全員失敗とも思う。
そして僕自身もその例に漏れない、というわけだ。悲しいなあ。
でも、僕は自分が居るべき場所におさまったのかな、という気がしている。
というわけで、そこまで悲観的に捉えてはいない。
だけど、なぜ自分がそのように感じてしまうのか、という点で、若干の苦しさを感じるのだ。
まあつまり、言い訳をひたすらに見つけ出す作業をしてしまうということだ。
言い訳に縋りたくなる理由は単純で、僕の人生は負け知らずだったからだ。
学校の成績が悪かろうと、受験で失敗したことはない。
習っていたサッカーだって、運動能力の低さの割には、
チームでレギュラーになったり、市のトレセンに選ばれたり、
身の丈以上の実績をおさめてきた。
なので、初めての「失敗」「挫折」が就職活動ということになる。
ESで「これまでの挫折はなんですか」と問われまくり、
「挫折なんてしてたらここまで人生歩めてないわ!」
とツッコミまくった結果がこれ。
捻くれ者に未来はない(適当)
というわけで、この記事では私の言い訳を大公開する。
まあ、そんな大公開と銘打つほど多くもないんだけど。
言い訳(1)「貧困の連鎖」ならぬ「中流の連鎖」説。
前このブログでももしかしたら書いたかもしれないが、
僕の父はそれなりに普通な企業で、そこそこ良い給料をもらって暮らしている。
そんな家庭に育った自分は、中流階級の子どもである。
僕は父を尊敬しており、面接でも「父を尊敬しています」と口が酸っぱくなるほど話してきた。
なので、父のようになれる場所が与えられたのかな、と思う。
言い訳(2)面接下手なだけ説。
僕はなんだかとても話が長くなってしまう癖があるのだが、
もうこれは「不治の病」とでもいうべきものである。
だから、簡潔を死ぬほど求められる面接では死ぬほど弱い。
そりゃ死ぬわ。グェ。
その他、就活という制度が悪い。
安倍首相が悪い。
舛添が悪い。
電通は気に食わん。
……などなど、何個か説を用意してしまうわけだが、
「もう少し自分をどうにかする方向に向いていけよ!」
と感じるのだ。
「このままじゃ成長しないよ!?」
「話が長いって営業やるんだったら致命的じゃん!?直そ!?」
脳内会議でさまざまな僕が発言するが、
議長の僕は、決まってこうやって締めるのだ。
「生まれつきだし、不治の病だし、しょうがなくね?」
独裁ってよくないよね。
その点日本ってミンシュシュギダワーステキダワー。
俺も、脳内革命起こそ。
新国立競技場問題への怒りを吐き出すだけ
怒りその1
新国立、ラグビーW杯使用断念 デザイン変更へ :日本経済新聞
もう、酷すぎると思う。
ラグビーW杯のメイン会場じゃなくなるってどういうことだ。
オリンピックがよければ、オリンピックが国立でできればすべて良しなのか。
たしかにラグビーは競技の規模として、日本ではそこまで人気があるとは言えないかもしれない。
世界的に見ても、サッカーやバスケットボールみたいな人気はないのかもしれない。
それでも、メジャースポーツだ。
4年に一度の世界大会だ。
日本にも外国にも、待っているファンは大勢いるのだ。
総工費の問題はわかる。
多くの批判が出るのもわかる。
デザインを変えるのもわかる。
でもなぜこんなに判断が遅くなったのか。
そのしわ寄せはラグビーW杯にくるというのに。
怒りその2
【新国立・安藤忠雄氏会見】(2)「ゼネコンの人たちも、もうからなくても『日本の国のために頑張る』と言ってほしい」「徹底的なコストの議論にはなっていない」(1/4ページ) - 産経ニュース
この見出しを見た瞬間の衝撃。
ゼネコン的に、儲かるから金をたくさん必要とするというところはあるだろう。
でも、もし「日本のためにがんばる」と言って、会社が受け取る金を減らしたら、それは末端の労働者を絶対に苦しめることになる。
「お国のために」と言って絶望的な薄給で働かせるなんて、戦時中か何かか。
ある意味平和の祭典にぴったりだ。
特に自分の中で深みを持った意見があるわけではないが、この怒りだけは表現したかった。だがゼミ論とかいう課題それを阻み続けた結果、更新が遅くなってしまった。
日本の技術力を世界にアピールしたかったのかもしれないが、こういう迷走が、日本の愚かさをしらしめる結果となってしまったことは、本当に悲しい。
人という字は人と人とが支え合ってできているというのはあながち間違いではない。
自己肯定がなくては、生きていけないと思う。
自分が何か他の人に比べて勝っているという部分がなくては。
自分に自信がある点がなかったら、僕だったらまず死にたくなる。
だけど残念ながら、僕は自信があるものが少ない。
それは、とてもとても優秀な兄を持ち、どうしてもそれと比較してしまうからである。
兄は勉強せずともそれなりに良い成績が取れるのにめちゃめちゃ勉強するし、運動はなんでもできて足だってかなり速い。具体的なエピソードをあげるとすればいくらでも出てくるが、長くなるのでよしておく。
さて、そんな兄に僕は少ないながらも勝っている部分があると思っていた。
それは字の丁寧さだ。
兄はそれはそれは適当に字を書くので、読めないというわけではないが文字通り雑になっていた。
一方、僕は普段は丁寧に字を書くので、まあとても綺麗というわけではないが、それでも悪くない字を書く。本当に上手い人と比べると悲惨なのだが。
だが残念ながら、兄は本当に適当に、雑に書いていただけだったことが発覚した。
めちゃめちゃうまかった。
就職活動中の兄の企業に提出する書類を拝見したところ、ショッキングなほどに丁寧で、上手だった。明らかに僕よりうまいのである。
本気を見せられた。悲しい以外の感想が出てこなかった。
で、なんで僕は自分の字が兄より綺麗だと勘違いをしていたのだろうか。
それを少し考えてみたところ、やはり母など、他人の言葉が重要だったということだろうという結論に至った。
母は小学校低学年の頃から、よく私に言った。
「あなたは字を丁寧に書くね。綺麗だね」。
たまにテストで時間が短いために急いで雑になってしまったときには、
「どうして丁寧に書けば綺麗なのに、こういう字を書くの。先生に失礼でしょ」。
そして兄の字については、
「全然丁寧に書かない」と嘆いていたのだ。
母だけでなく、友人の言葉も(たまに褒められる程度だが)重要だったように思える。この間なんかは「横書きなら本当に上手」なんて具体的に言われたので、それはそれは舞い上がってしまった。
心理学的に分析したわけではないし正確性のかけらも無いけれど、自己肯定というものは自己ではなく他者を起因にして、つまり他者からの評価によって成り立っているようだ。
「綺麗だね」という他者の言葉が、仮に幻想だったとしても僕の自信を作り上げていった。
いつしか自己評価へと変わっていったらしいが、自信とはそうやって生まれてくるものではないだろうか。
そして自信がなくなるというプロセスもまた、やはり他人によって決まってしまうのかもしれない。
僕が兄の字の綺麗さへの驚きを母に伝えたところ、「丁寧に書けばうまいんだよ。なにせ小学校1、2年生の頃は白尾先生に仕込まれたんだからね」と当然であるかのように言われた。
白尾先生がどれほどの先生なのかはそこまで知ったことではないが、白尾先生の指導を受けていない僕にとってはとても悲しいことだった。
別に僕の方が下手くそだと明言されたわけではないが、各人の基盤となる部分に格差があることを指摘されると、もう敵わない気しかしない。本気を出せば、僕はちゃちゃっと抜かれてしまうのだ。悲しかろう。
人は他人に生かされているのだと感じる。
もっと言えば、他者からの評価によって。
人は助け合いで生きているというけれど、それは何か直接的な利益になるようなことを他人がしてくれるというわけではなく、他人が自分を評価してくれる、見てくれるからこそ生きていけるのだということなのだと思う。
ここがいいね、ここはダメだねと言ってくれる他者によって、自信や、生きる活力が湧いてくるのではないか。その相互行為によって、人というのは生かし生かされている。少なくとも僕はそうである気がする。
とりあえず今は、字以外に誰かが褒めてくれた点を必死に思い出している。
どうやら思い出せないがきっと何かあっただろうから、ひとまずは「僕は何か自信を持てることがきっとある人間だ」という自信を持って生きてみよう……。
<余談>
本当はこの後ネットで見たニュースや、母から聞いた話を入れるつもりだったのだが、なんだかうまいつながりを作れないため、ひとまずここで筆を置く。
それと、この記事を書いている途中に教えてもらった歌が、なんとなく内容とリンクしている気がするので紹介しておく。他者からの目線が自分を生かしているという感じ。多分かなりメジャーな歌だが。こういう歌が他にもあれば教えて下さい。
平和とは戦いから逃げている状態でただの錯覚である。
世の中、僕がほわわ〜んのほほ〜んと過ごしている時に、
とても苦しい時間を過ごしている人がいる。
自分にとっての平和は、誰かの戦いによって成り立っているのかもしれない。
何が言いたいのかというと、
編集期間が嫌だという話である。
今僕はとても平和な時間を過ごしている。
日中アニメを見て、ゆっくりとご飯を食べ、ごくたまに仕事をするような、まさに悠々自適である。
こんな毎日がずっと続けば良いが、現実はそう甘く無い。
悲しい。
知り合いでない読者のために編集期間とは何かと説明しておくと、
僕の属しているサークルの死ぬほどすごい忙しい一週間なのである。
ざっくりだが、気にしないでほしい。
どれほど忙しいかといえば、労働時間が1日平均18時間を超えてくるのである。
一週間だから生きていけるものの……という感じだ。
自分がサークルの長だから文句は言えないのだけれど。
だから忘れないでほしい。
春ABが終わり夏休み生活を謳歌している学生の裏で、
僕が死ぬほど(本当に)過酷な生活をしているということを。
あなたたちだって数年後には社畜なんだからな。
覚悟してろという話である。
こんな中身のない投稿は初めてだ。
まあブログってこういう場所だし。
無知の智
連投になるが、またまたツイッターで気になるつぶやきを見たのでそれについて考えることがあったので、更新する。
あまり知り合いを批判したくはないのだが、いや、それは違うだろうと思ったことがあったのである。まあどうせこのブログ見ないだろうし、気にしないでおこうということで……。とりあえず先に謝っておく。ごめんなさい。
で、そのつぶやきというのが、
「デモをする人は国際政治学を勉強するか死ぬかどちらかにしてくれ」
というものである。
まあ気持ちはわからないでもない。
普通は、批判をするためにはそれなりの知識が必要だし、その知識の上でようやく「ここは正しいがここは違う」という形でなされるべきである。
だがデモは、ただ「批判」という側面だけを切り取ってはいけないと思う。
つまり「不安」というところを見過ごしてはいけないと思うのだ。
ああやって行進をすることで、「こういう部分が怖いんです」という一般市民の意思表示をしているということを忘れてはならない。
つまり無知であるが故に、「解決すべきポイント」をわかりやすい形で炙り出してくれるというわけだ。
もしそれが知識人からしてみれば的外れな意見であるならば、理解してもらえるように説明すればいいのだ。「不安」を解消してあげれば、ちゃんとした人はわかってくれるし、その方針に理解を示して抗議をやめるか、また新たな「不安」を持ち出してくるはずだ。
もちろん的確な意見を発信しているならば再検討することが必要だろうし、そのまま押し切るというのは愚策だろう。よく政府はやりがちであるとは思うが。
だから僕がデモをする人に対する発言をするならこうである。
「デモをする人は人の話を聞いてくれる人にしてくれ。ただ批判したいだけの人は死んでくれ」。
実際にデモをしてる人が人の話を聞ける人なのかは知らないが。
校長先生!100人が僕の話を聞いてます!
僕は自尊心の固まりなので、このブログの閲覧数を2日に1回くらいはチェックするのだが、今見てみたら100を超えていた。とても嬉しい。
この数字が他の人と比べてどうなのかは知らないが、一週間ちょっとで100回このURLが踏まれたということは、けっこうすごいことだと思う。
だってブログの開設というのは、何もPRせずに新規出店するお店と同じようなものだと思うのだ。たしかにお店よりも来やすい場所ではあるが、僕はこのブログを自分のツイッターのプロフィールのところでしか明かしていない。呟いてすらいない。しかも多分僕のツイッターのプロフィールをチェックするような物好きはそんなにいないだろうし。
それでいて100人か100回かは知らないが、それだけここに来た人がいるということは、わりと驚愕である。自尊心も救われる。割と見られているものだなあ。
ところで先日ツイッターを見ていたら「明光義塾の広告(かポスター)にこんなことが書いてありました」みたいなつぶやきを見た。
その添付画像には、
『Twitterあるある Twitterを長くやっているとフォロワーが数百人、千人以上という人も多いでしょう。そうなるとあなたのつぶやきは、全校生徒を前に話をする校長先生のような影響力があります。つまり誰も聞いていないということです。安心して好きなことをつぶやきましょう。』
と書いてあった。
ドン引きである。
校長先生が無難な話をしたらそりゃ誰も聞かないだろうが、
例えば「昨日3年B組のみなみチャンとセックスしたんだけどさあ、めっちゃ気持ちかったわwww」とか言ったらそれはもう大炎上である。
というかこんな例を持ち出さなくてもツイッターでいくらでも炎上事件はあるわけで。
まだ知識をそこまで身につけてない人を相手に商売する、それも「教える」という側面を持っている会社が、ブラックジョークを持ち出すのはどうかと思う。
ブラックジョークはきちんとした判断力がついている人に対してするのが前提であるはずだし、まずそういう人相手でなかったらウケを取れない。
自分たちのターゲットが誰なのかをもう少し考えるべきだろう。
しかしまあ僕のブログもツイッターも、校長先生くらいの影響力はあるのかなあと思うと嬉しいものである。
校長先生は、大学に入学して教職課程を全部取って、決して門戸の広くない採用試験を通って、30年間思春期の不安定な奴を相手にして過ごして、副校長時代の激務を通り、ようやく校長という役職に就けるわけで、大変な苦労をしてきたわけである。
そうやってようやく持つことができる影響力の一端を、会員登録というわずか数分で手に入れることができるということか。
僕のブログには校長先生の30年以上に渡る努力と同じ価値があるのだ(違う)
無関心に関心を向ける人に感心
今日は労働社会学のテストがあった。労働問題について色々考えさせられることはある。労働者がどのように闘争してきたかなどは歴史的には興味深い。
しかし端的に言ってしまえば、この分野は心に響かない。
なぜなら実感が伴わないからだ。
それは僕は下級労働者の親を持たないためであろう。
それゆえに一つ考えてしまう。
労働社会学に取り組む大学教授などは、大抵はいわゆる「インテリ層」だし、きっと多くの人は社会階層的に上の方に位置する家庭の出身なのではないか。その人たちはなぜ労働社会学に取り組み、また社会問題を解決するためのエッセンスを作ろうとするようになったのか。
LGBT問題についても同じことを思う。
僕はいわゆる「ノーマル」であるが、LGBTがいることは理解している。人がどういう嗜好なのかは個人の勝手だと思うし。だが「ノーマル」が大多数のこの世の中において、きっと彼らは生きづらいだろう。
そのために彼らが彼ららしくいられる世の中になってほしいと願うことは当然だし、そのような問題を解決する運動に取り組むのを見れば、大変だろうけど頑張ってほしいと思う。
しかし理解できないのは、「ノーマル」の人がさも自分のことのような悲壮感を持って偏見へ抵抗したり、活動をしていることである。どれだけお人好しなのだろう。素直に尊敬してしまう。
そういえば労働問題でいえばマルクスの盟友エンゲルスはたしか金持ちだったと思う。
世の中には僕の理解の外にあることが山ほどあるのだろうと感じる。
だからきっとテスト問題だって理解できないし、できなくたって仕方ないのである。
単位、来い。
<追記>
タイトル付け忘れてた。
なので思いっきりドヤったタイトルにしてみた。
うまいだろ(ドヤッ)