やる気のない大学生、やる気みなぎるヤンキー
3日前に自動車教習所への文句を書いた。
教えることは統一しろというものである。
結局修検では、教官2人の言っていたことの間を取り、見事に合格した。
多分そこは試験の合否には関係のないところだったのだろう。
ところで(かなり唐突に話題が変わるが)、自動車教習所というのはかなり特殊なタイプの学校だと思う。
僕みたいな(世間的に見れば)学歴の高い方の人間、普通の大学生や高校生、かなり年配の方やヤンキーまで、とても幅広くカバーされている。
そして更に面白いのが、そんなカオスな環境なのにかなり平穏な空間が作られているということだ。
僕や模範的な高校生が静かに過ごしているのは当たり前としても、学校でなら授業をめちゃくちゃにしたりまともに話を聞かないはずのヤンキーが、どういうことかあの静かで緊張感は言うほどあるわけでもない空間に順応しているのである。
それは何故か。
別に聞いたわけではないが、おそらく「免許を取りたい」「運転したい」という欲望が最優先されているからだろう。
多分免許を取り終わってからはアクセル全開でぶっ飛ばすようになるのだ。バイクだけに!ブンブン!
なのにしっかり模範的に教えを受けている。偉い。
このヤンキーたちの自動車教習所での行動は、目の前に憧れや目標があればしっかりと教育を受ける姿勢になるということを示唆していると思う。
それはきっとアスピレーションとかそんな将来的なものではない。もっと即物的な目標があればモチベーションになるということだろう。
話は変わって、最近、大学の職業訓練校化が世間を騒がせている。
旧帝大と慶応以外は「職業訓練校化」すべき? 文科省の「有識者資料」に議論白熱 | キャリコネニュース
(何故か大手メディアのニュースが出てこなかった。見つけ次第追記する)
僕の周りにいる大学の先生や、それにインスパイアされつつある友人らは、これらの動きに対して「けしからん。大学とは学びの場であり、それを崩されるのはたまったものではない」と一蹴する。上に挙げた「キャリコネニュース」の中にも出てきているが、コラムニストの小田嶋隆さんもツイッターで「私は、大学が労働力の商品性を高めるための機関であるという意見には賛成できません。きれいごとを言えばですが、大学は、広い意味で人が幸福に生きていく道を模索するための場所だと思います」と批判している。
別にこれらの意見が間違っているとは思わない。僕も基本的には大学はやはり高度な研究をし、それができるようになるための教育機関であるべきだという考えである。
だが自動車教習所でのヤンキーを見ていると、すべての大学進学者にそれを押し付けるというのの意味があるのかということを考えてしまうのだ。
大学進学者の中には少なからず「何かすることもないし、周りも皆行くし、とりあえず」という理由で入ってくる人がいる。そしてその中で「将来やりたいこと」や研究に没頭するようになる人は、決して多くはないのではないだろうか。自分で決めることができず、モチベーションが上がらないという人はいると思うのだ(僕も含め)。
また「何かやりたい」と思っていても、大学は研究機関であるためにそれにつながらないところに行ったり、ダブルスクールしたりなどする人もいるだろう。
そういう人にとっては職業訓練(キャリア教育と同じ意味で捉えても良いと思うが)は、将来目指すべき場所を示したり、きっかけを与えてくれる、またそこにつなげてくれるというのは、大きくプラスに働くだろう。資格を得るための教育などは、その最たる例ではないか。即物的であり、視野を狭めることになるのではないかという不安はあるが、目先の目標ができることにより勉強に身が入るようになる学生は少なくないはずだ。
だから、職業訓練という側面を持つことをそこまで否定する必要があるのか、と考えてしまうのだ。学ぶ環境を整えることは必要だが、その「学び」は学問でなければならないのか、と疑っている。
繰り返すが、大学の本来やるべきことは学問・研究であり、それを推進していくことが第一に考えられるべきことであるというのが僕の意見だ。
ただ、大学全入時代となった今、大学にも多様性が必要なのではないか、大学の存在意義の再検討がなされるべきであり、その方向性として学問の他にももっと即物的で取り掛かりやすいものを学ぶことができる環境を整えてあげても良いのではないか。
世間ではよく学歴について語られる時に、「大切なのは学歴ではなく、大学で何を学ぶのかが大事だ」という意見が並べられる。
もし本当にその通りなら、「大学で資格を取る」ということも認められても良いのではないだろうか。その人の頑張りとして、評価されるべきではないか。
学問に楽しみを見出せない大学生も、自動車教習所のヤンキーのごとく、やる気みなぎる大学生にモデルチェンジする可能性だってあるわけだ。
現在は、秋田市の国際教養大の教育が注目を集めるなど、キャリア教育の存在が大きくなっている。
国際教養大が良くて、職業訓練校の何がダメなのか。
……国立大学の文系廃止とセットで語られてしまうからかなあ、そりゃ文系を無くすのはダメだよなぁ。というか無くさないでくれよ、僕の肩身が狭くなる。
みんゴルじゃないんだから。
「今までで一番不愉快」 異色の全米OPコースに糾弾相次ぐ (GDO) - Yahoo!ニュース
こういう議論があるらしい。
コースを見たわけではないので、詳しいことは何もわからないが。
この記事の中にこんな記述があった。
「世界が水不足に苦しんでいるのに、このコースがどれだけの水を消費するのか?」(ゲーリープレイヤー氏)。
記事に使われている写真を見ると、「たしかに……」と感じざるを得ない。
これを見たときにパッと思い出したのは、
「みんなのゴルフポータブル」のコース「ダイナパークGC」だ。
たしかこのコース、太古の昔を最新技術で再現したとかなんとかいう説明があった。
ゲームでは無茶が利くけど、現実世界は色々と考えないといけないんだなあと思った。
閑話休題。
このチェンバースベイというゴルフコースに憤ったプレイヤー氏は言う。
「(ゴルフコースは)もっと短時間で、楽しくできるようにしないといけない」。
それはこのコースがパブリックコースであることもあり、アマチュアも楽しめるようなものでなくてはいけないという理由からだそうだ。
記事にも書いてあることだが、これは新国立競技場の問題にも関わってくることだろう。
いわゆる「税金の無駄遣い」にならないためにも。
だってこのゴルフコースは郡が所有しているのにもかかわらず(つまり税金によって整備などがされているということだろう、違ったら本当に申し訳ないが)、アマチュアゴルファーが楽しんで使うことは難しいコース設定になっているのだ。
たまたま今年の全米オープンでは使われているが、来年も同じ場所で開催するわけではないだろう。
仮に毎年やるにしても、プロが使う日数は相当限られている。
ほとんどがアマチュアによって使われるはずなのに、アマチュアが楽しめないというのは、かなり問題があることだ。
この点では、オリンピックの施設問題と似ている。
「大会が終わった後どうするか」という定番の問いに通ずるものがある。
最近の例で言えば、北京オリンピックで使われた「鳥の巣」は現在ではかなり残念な状態になってしまったそうだし。
そんな一時しかまともに使えないものに税金をつぎ込むなんて、もったいないにもほどがある。さすがに新国立競技場に関しては使われなくなるということはあり得ないと思うが。
問題は大会後に使えるか使えないかにあるわけではない。
屋根の開閉機能についてが、問題と言えるものの一つだろう。
新国立競技場の屋根開閉はオリンピックには間に合わず、それが終わってからつけるなんて報道も見たが……。
新国立競技場:開閉式屋根は後回し…文科省が計画を見直し - 毎日新聞
屋根の開閉に一回いくら金がかかるのか正確なことは知らないが、かなり高いと聞いたことがある。
一番必要なときに設置できないのなら、更に金をかけてまで付けるほど大切なものなのだろうか。しかもそれは継続的に使われるわけで、屋根だけでなく芝のメンテナンスにも余計気を使わないといけないわけで……。
こういう税金の使い方はどうなのだろうというのが、僕の意見だ。
もっと現実的に捉えられて良いものではないだろうか。
後のこと、後のことを考えて、計画をするべきだ。
失敗が許されるものではないし、ゲームではないのだから。
無茶が利かない、色々なことを考える世界であることを忘れずに、判断してほしいと考えている。
でもゲームの世界ではいくらでも夢を追ってください。
みんゴル大好きです。
教育の責任
僕は今自動車教習所に通っていて、2日後には仮免試験が控えている。
何で検定料が入校時に支払ったものとは別にかかるのか、しかも何であんな高いのか(約15000円)などなど、憤りは絶えない。
しかし、それ以上に直面し、困っていることがある。
クランクへの進入方法だ。
僕が通っている教習所では(もしかしたら教習所のコースは全国共通かもしれないが、よく知らない)、ホームストレートにクランクへの進入口がある。
外周を回っていてホームストレートに入ってくると、右手に
1、S字カーブの出口
2、右折路線の設けられたT字路
3、クランク入口
の順に、車が通る道が見えてくる。
それぞれの道の間は短く、それゆえにどこでウインカーを点滅させるか、中央線に車を寄せていくかということが重要だ。
ウインカーは寄せる3秒前に出せば良いので、とりわけ問題はない。
迷っているのは、車を寄せるタイミングだ。
ある教官は(教官Aとする)
「まずT字路の直進路線に入り減速、交差点を通過する直前、直進路線が途切れたら、交差点の真ん中にある目標を目指して右に寄せていったらいいよ。早めがいいんだよ」
と言う。
しかしある教官は(教官Bとする)
「交差点をしっかり通過してから右に寄せる。早いと右折車に迷惑がかかるからね」
と言う。
僕はもともと教官Bと同じ考えを持っていた。
だけどそれだと(僕の運転技術では)遅すぎる、せわしなくなってしまうということなのか、教官Aに早めにハンドルを切るように言われたのだ。
そして教官Aに言われたやり方でやるようにやるようになった。このやり方で、前者の教官を満足させることはできたので、それなりにできていたのだと思う。
ところが昨日、教官Bに上記のように言われてしまったのだ。
もちろん、前に言われてその時できていたことができなくなってしまったという可能性はある。幾ら何でも早すぎるという具合に。
だが、教官Bは、「交差点の目標めがけてハンドルを切るのは早いよ」と言うのだ。
つまり、僕の運転技術のせいではなく、教官Aが教えていることを否定しているのだ。
車の安全な運転というものには、明確な正解があると思う。正解がなくてはあのような形での試験は行えないだろう。
ところが今、僕はどちらが正解なのかわからずにいる。
さすがにその迷いによって試験に落ちることはないとは思うが、とはいえこちらは高い検定料を払って試験を受けるのだし、しっかりと「何が正解なのか」ということは統一してほしい。試験だけではなくこれから車に乗るときにも関わってくることだ。
正解が用意されるべき問いには、正解を用意してから教えることが、責任ではなかろうか。
仮定と批判の連続である研究とは違うのだから。
僕は将来モンペにでもなるのだろうかという一抹の不安が出てきた。
単純な男、オタク
ラジオで「SHIROBAKO面白いっすよ」
と発言したというだけで、星野源が好きになっちゃう。
まだ彼の曲は一つも聴いてないし、これから聴くのかすら怪しいが、それでも好きになっちゃったのである。
単純だ。
※SHIROBAKOはアニメ業界を描くアニメである。2014年10月〜2015年3月に放送された。
オタクという人種は、こういうことに敏感になりがちである。
福山雅治が「ニコニコ見てます」「初音ミクいいですよね」というだけで「福山雅治最高だな」とか言っちゃうし、
ラブライバーとして有名なキスマイの宮田くんのオタク(ネット)人気は凄まじい。
彼らが自分たちオタクに同調しているというのは、オタクにとても勇気を与えてくれる。
オタクは、従来迫害されてきた生き物だった。
美少女アニメを見ていれば「あいつ気持ち悪い」とクラスでは除け者にされる。
生身の人間との連帯を築けなかった彼らは、ネット社会にそれを求めた。
それはそれぞれがとても薄い、弱いつながりで、一方で無限に広がるものでもあった。
それでも、ネットという場所でしかない。
現実世界でのつながりに敵うことはないのである。
彼らが市民権を持っているのは、パソコンの前だけだった。
では、クラスの中でも現実世界でも市民権を得るには、どのような条件が必要か。
それは「オタクのステータス化」ではないだろうか。
ではステータスとなるにはどうすればいいか。
影響力の強いやつ、すなわちイケメンがオタクになることである。
だから彼らは福山雅治がニコニコを見ているとわかった時に「僕も見てていいんだ」と安堵したのである。
それは、クラスにおいても同じことが言える。
以下は中学2年生の頃の体験談である。
当時の僕はアニメにもアイドルにもハマっていなかった、純朴(?)な少年であった。
少し頭が良かったこともあり、クラスの参謀役みたいなボジションを得ていたような得ていないような人間だった。
そんな僕に、ある日の掃除の時間、イケメンが小声で話しかけてきた。
「AKBが好きになっちゃったかもしれない」。
僕は「え、キモ」と素直に返した。笑いながらではあったが。
しかし、こういうやつがアイドルにハマるなんて面白いなあと感じ、彼に対して好意的でもあった。
事態が急変するのは、数週間後だった。
女子も含め、クラス中がAKBにハマっていたのだ。
とても信じられなかった。
クラスの中において、「AKBが好き」ということは従来なら迫害の対象でしかなかったのに、イケメンが一人でそれをひっくり返したのだ。
「アイドルオタク」というポジションは、市民権を得るどころか、与党にまでなってしまったのである。
そういうわけで、オタクはイケメンの出現によって、市民権を得ることが可能なのである。
福山雅治のおかげで(もちろんそれ以外の要素は腐るほどあるが)、ニコニコを見ることへの抵抗感というものは薄らいだと思う。
宮田くんのおかげで(もちろんそれ以外以下略)、ラブライバーであることは迫害の対象ではなくなく、むしろ一種の個性として見られるようになった。それ以外の要素には「スクフェス」が一つあるだろうが、これもまたイケメンというかリア充もやっているということで、ウェイ大学生たちも一緒にやるようになり、ラブライバーが幅を利かすことができるようになったのではなかろうか。
オタクの社会的地位向上が期待されるような「脱オタク化」が進むのは、パンピーの「オタク化」が進むことによって成される。「オタクのフラット化」とでも言おうかな。
そのパンピーの「オタク化」が進むには、イケメンがオタクになることが重要な条件だと思っている。
なんでこんなことを長々と書いたかといえば、僕は星野源がSHIROBAKOが好きというのはとても嬉しいからだ。
なぜなら僕はSHIROBAKOが大好きなのである。
そしてSHIROBAKOを作ったアニメ制作会社「P.A.WORKS」が大大大好きだからである。
星野源の発言をきっかけに、SHIROBAKO並びにP.A.WORKSが世間的に認知されるようになり、
自分の社会的地位の向上につながれば良いと思っているのだ。
「星野源だって見てるんだぞ!?むしろ何で見てないの!?」
とドヤ顔したいのだ。
……自分のことしか考えてない、嫌な人間だなあ。
ガンバ大阪新スタジアム無事完成予定
<サッカー>ガ大阪新スタジアム事業費140億8000万円 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
これについて書きたくなったからこのブログを作った。
僕はこのニュースが心底嬉しい。
ガンバの元のホームスタジアム、万博記念競技場。
これはまあ酷いスタジアムだった。
初めて行ったのは、小学校4年か5年生の時だった。
スタジアムに入る前に「えっ……」となり、コンコースで唖然とし、スタンドに入り絶望したのを、きっと衝撃的すぎたのだろう、鮮明に覚えている。
座席が「総合競技場と一緒」というオチまで付けてくれた。さすが大阪である。
※総合競技場とは、稲城市総合競技場のこと。小学生がサッカーの市民大会で使うようなスタジアムだ。
当時サッカー少年だった僕は、するのはもちろんだが、それよりも観るほうが好きだった。プロ選手の巧みなプレーや練り上げられた戦術に魅力を感じていた。
それだけではない。スタジアムの雰囲気、応援団の熱気、ゴールが決まった時の一体感……。サッカーを取り巻く、何もかもが好きだったのだ。
ヴェルディのお膝元、稲城市に住んでいたこともあり、いつも観に行くのはヴェルディの試合だった。だがすでに弱小クラブ(は言い過ぎかもしれないが)となってしまっていたこともあり、少し退屈で、少し飽きていた。
だから、母の実家がある大阪に行った時に
「ガンバの試合のチケットあるぞ、行くか?」
とおじさんに言われた時は、飛び跳ねるように嬉しかったのだ。
それゆえに、スタジアムに入った時の絶望はなかなかのものだった。
久々に強豪チームの試合を見れる!とウキウキで行ったのに、まさかスタジアムでげんなりさせられるとは思わなかったのだ。
後にも先にも、あんな思いをしたのはこのスタジアムだけだ。
(野津田もかなり酷かったが、下部リーグのスタジアムだし、さらに言えば僕が小学生のころに試合をしていた場所でもあるから、目を瞑った)
そんな酷い思い出が残ったスタジアムから、ついに立派なサッカー専用スタジアムになることが決まったのだ。嬉しくないはずがなく、小踊りする程度に喜んだ。
しかし、万博競技場が教えてくれたこともあった。
サッカーをあまり知らない友人に「連れて行って欲しい」と頼まれた時に、必ず専用スタジアムでの試合をチョイスしている。万博競技場の酷さから、まずは会場の雰囲気や環境が、サッカーを観るのにふさわしいものかどうかが重要であるということを学んだのである。
もちろん、まったく楽しめなくなるというわけではない。でも「宇佐美ってすげえんだな!見てみたいな」と意気揚々とチケットを買ってきた新規のお客さんが、宇佐美のプレーを観る(というか試合が始まる)前にげんなりするというのは、とても悲しいものがある。
僕は、スタジアムの「空気感」、つまりサッカーを「楽しめる、楽しみたい空気」ができやすいということこそが、専用スタジアムの良さなのだと考えている。新しくサッカーを見に来た人が没入しやすい環境を整えることが、何よりも大事だと思う。
そのような環境が、大阪の新スタジアムではできるのではないかと期待しているのだ。それも、日本のどのスタジアムよりも良いレベルで、だ。
つまり、従来の万博競技場の数倍、数十倍、数百倍のめり込みやすい場所に仕上がるだろうと、ワクワクしている。
新スタジアムが完成したら、ぜひ見に行ってみたいと思う。
残念ながら僕には「大阪までサッカーに連れてって」と言ってくる突飛な友人はいない。
だが幼い頃のものでも、苦い思い出は上書きするに越したことはないだろう。
10年前の自分のためにも、ガンバのサッカーを目一杯楽しみたいのである。
負け犬の遠吠え
ツイッター全盛時代に突入した今、ブログというものはなんだか勢いを失ったように思える。
140文字という短い、短すぎる制限の中で何かを伝えようとするのはたしかに面白い。自分が何か発信したいことがあった時に、どこを強調したいのか、それをドラマティックにするにはどう展開すればいいか、どうしたら読み手にとって読みやすいものになるのか、といったことを限られた文量でしなくてはいけない。
しかし、本当に面白いのは、「お腹すいた」「暇」といった、とりたてて今までは発信する価値がないと思われていた情報が、一番目立っているということである(偏見)
そして、一番感心するのは、その情報は、実は価値を持っていたということを世に知らしめたのが、ツイッターというツールだろう。「お腹すいた」というつぶやきに、誰かが「じゃあご飯食べに行かない?」とリプライすることがそれだ。そうやって、コミュニケーションを取るまでの敷居を低くする作用が、ツイッターにはある。友人関係でさえもネットに大きく左右されるのだ。この情報化社会の中、溢れまくっている情報を手にいれるのに、ツイッターほど良いものはない。
こんなツイッター全盛時代に、なぜ僕がブログを始めたか。
その波に乗ることができなかったからである。
友人(とこちらは勝手に思ってる人)が「誰かご飯食べようよー」と言っていても、僕は「行こうぜー」と言えないのである。
悲しいなあ。
だから、ブログに逃げ道を作ってしまった。
でも結局ツイッターとそう変わらない「戯言」なのである。
このブログで何を書くかはわからない。
ツイッターのようなことをするかもしれないし、日記になるかもしれない。
でも一番確率が高いのは、全然更新しないということであることは明白だ。
だって、とりあえず気が向いたから今日作っただけなのだから。
とりあえず、気が向いたときに何か書こうと思う。
ブログは、僕が楽しめるコンテンツなのだろうか。